●小説「Ride On Stardust」②
・・・風が、動いていた。青い闇の底で冷たい金属光沢がかすかにきらめく。シフトを1速に入れる音。突然、いくつものエキゾーストノートが重なり・・・。
クラッチを切りギアを入れると、急速に小さくなってゆく赤いテールランプを追って、僕も走り始めていた。
タコメーターの針がダンスをするように揺れ、2速、3速とシフトアップしながら、フェアリングの表面を後方へちぎれ飛んでゆく風の声を聞いている。
朝焼けのコーナーへ一直線になって侵入してゆく仲間たちのバイク。バックミラーの中で、西に落ちかかったオリオンが小刻みに震えている。
冬の始めらしかった。それぞれのバイクのリアシートにパッキングされている望遠鏡。
そうだ。今、僕らは夜を徹して写真を撮影し、あるいは星雲・星団を巡った一夜の成果と充足、そしてそれに見合った眠さと疲労をバイクのリアシートにくくりつけて、明けかかる奥多摩のワインディングを帰路につこうとするところだった。路面は所々白く凍結し、慎重に車体を寝かしこみながら、しだいに明るさを増してゆく東の空へ向け、いくつものコーナーをクリアーしてゆく。やがて金星の白い輝きだけが消え残る頃、遥か眼下に、いまだまどろみのなかに沈む奥多摩の町あかりが点々とその数を増しはじめる・・・。
あの頃、いつもバイクだった。生ぬるく湿った夜気が体中にまとわりつく夏の夜も、氷の方がまだ暖かいと思えるような風が全身を貫く真冬の明け方も、僕らはそれぞれのバイクに観測機材をくくりつけ、暗い夜空を求めてひたすらに走っていた。今ならば当然車を使うところだったが、あの頃、タバコ代すら賄えない貧乏学生ばかりだった僕らにとって、車を買うなどという贅沢は夢のまた夢だったのだ。
それならば、貧困に打ちひしがれ、仕方なく安価な輸送手段として、危険で不便極まりないバイクという乗り物を選択していたのがその頃の僕らだったのかと問われれば決してそんなことはなく、僕らは皆、いつもある種のヒロイズムを感じながらバイクのハンドルを握っていた。
バイクは確かに、暑さ寒さに直接身をさらし、雨が降れば濡れ、怪我や死は常に隣り合わせであり、望遠鏡をはじめとした観測機材の運搬にも適しているとは言いがたい乗り物だったが、それでも仲間の誰もが、星を見に行くといえばバイクで集まり、寒いだのつらいだの文句を言いながらも、バイクで切り裂く季節の風を星空とまったく同じ自然の断片として感じとり、一晩の星との語らいをより印象深い記憶として心に刻みつけてゆくことに価値観を見いだしていたのだった。
「車で星見に行くなんて軟弱だ」・・・。いかにも手前勝手だが、ライダーとしては心から同意できる若さと覇気、そんなものをあの頃の僕らは、確かに誰もが持っていたように思う。
☆
「おい、このバイク、どうしたんだ。お前、免許持ってたっけ?」
皆の問いにIは、へへへ、と曖昧な笑いを浮かべながら、
「おやじのバイクだよ。ちょっと借りてきた」
そう言うと、その50ccのビジネスバイクにまたがり、あっと言う間もなく、白煙だけを残してその場から消えていった。
流星観測会の最中だった。空は快晴で、そろそろ出現数を増やし始めたペルセウス座流星群が退屈しない程度に飛んでいたものの、辺りを一回りしてきたIが帰ってきてからは、もうみんなバイクに夢中になっていた。代わる代わるハンドルを握っては、慣れないクラッチ操作にウィリーしたりエンストしたりしながら深夜の畑の道を走り回った。
結局その晩の流星観測は不満足な結果に終わったものの、仲間の全員が原付免許を取得したのは、それから1週間もしないうちのことだった。
☆
「ちょっと、あの車、むかつかねえか?」
僕の左隣に並んだSが、ヘルメットのシールドを上げてそう言った。右隣のAも「さっきさ、危なかったよ。
いきなり幅寄せしてきてさ」
そう言って、険しい目付きをする。
「やるか」
ふだんは温厚なYが、ぼそりと言った。
清里からの帰りだった。皆のバイクのリアシートには、望遠鏡やテントがくくりつけられている。
信号が青になった途端、真っ先に飛び出していったのはIだった。続いてSがフルスロットルで続く。
目の前を1台のコルディアターボが走っていた。ずいぶん前から、しつこく僕らに幅寄せをしたり、接触しそうなほどに車間を詰めたりを繰り返していた車だ。
XJ400に乗ったYがアウトからコルディアを追い越す。続いてDT125のIがインから前に出る。5台のバイクに囲まれたコルディアは、ローリングをしながら振り切ろうとするものの、やがて追い詰められる形で道の端に停車させられた。運転席側のウィンドウが開き、20歳前後の若い男が怒鳴り声を上げる。
「てめーら、ふざけんじゃねえぞ」
その男の襟首をSが鷲掴みにした。
「ふざけてんのはどっちだ。ぶん殴られてえか」
Sは喧嘩慣れしている。本気で怒っているSの暗い表情に凄みがある。
しばらくSと男の問答が続いた。と、やおら男が大声で泣き出す。
「わかったよ。俺が悪かったからもう勘弁してくれよ」
男の隣で、その彼女らしい女の子が震えているのを見たSが手をゆるめた。
「まじめに運転すれば何も言わない。行っていい」
タイヤを鳴らして走り去るコルディアをしばらく見送っていたSは、やがてシールドを下ろすとゆっくりと走りだした。僕も、仲間も、Sの後からゆっくりとギアをシフトアップして加速してゆく・・・。
☆
5月の野辺山。異様な大きさで北天にかかる、アイラス・荒貴・オルコック彗星を僕らは見上げていた。星明かりに電波望遠鏡のシルエットがほの白く浮かび、見る間に星空を移動してゆく彗星の姿をポタ赤に乗せたカメラで切り取ってゆく。
傍らにはその頃乗っていたDR250。隣で写真を撮るAのバイクはXT250。2台のオフロードバイクで、
僕とAは野辺山へやって来ていた。
それにしても寒い。バイクで夜風を切り続けてきたこともあり、ガイドもままならないほど手が震える。
ようやく撮影を終えた僕らは、途中の大月で買ってきたほかほか弁当の包みを開いた。
「げっ。凍ってやがる」
Aが悲鳴に近い声を上げた。
半分ほど食べたものの、氷点下にまで下がった気温のなかで食べる凍りついた弁当は、撮影の後で予定していた彗星捜索をする気力を完全に失わせるに充分すぎるものだった。
東の地平線には、M31が小さな白い雲のように昇りはじめ、シュラフにくるまった僕は傍らのAに軽口をたたいた。
「あの辺りに、彗星がいたりしてね」
・・・その夜、菅野・三枝・藤川彗星がM31のすぐ近くに発見されたことを知ったのは、家に帰り着き、たっぷり眠ったあとのことだった。
☆ ☆ ☆
翌朝早い新幹線で岐阜へ帰った。
車窓を流れる朝の風景を見つめながら、昨夜見たいくつもの夢のことを思い出している。
(野辺山での一夜は傑作だったな)
あの夜、やはりそのころ彗星を探していたSはといえば、バイク(CBX125Fだった)で奥多摩へ行き、さあ、これから捜索だという時に知り合いの星好きとばったり出会い、意気投合して朝まで酒を飲んでいたという。
(本当にあの頃は、毎日が傑作だった・・・)
車内販売のコーヒーを飲み終えると、僕は目を閉じた。
風が、流れている。夏の終わりの風だった。
帰宅すると、かなりメールがたまっていた。メールを読み流してゆくうち、懐かしい名前を見つけて目をとめる。
『・・・久しぶりにバイクを動かしました。もう10年エンジンをかけていないのでダメかと思いましたが、ちゃんとかかるではありませんか。ちょっとキャブを掃除すればノープロブレムのようです。それにしても懐かしいですね。晴れた晩にはいつもバイクを連ねて星を見に行ったあの頃、ほんの昨日のことのように思いだされます・・・』
Yの書きこみだった。お互い住む所も遠くなり、滅多に会うこともなかったが、メールでのやりとりは続いていた。
偶然とはいえ、もう10年以上も話題に上らなかったバイクのことがこうしてメールにアップされたことに、
僕は不思議な巡り合わせを感じていた。
『実は・・・』
パソコンに向かい、僕も昨夜のことを書き綴りはじめる。
翌日からのメーリングリストは、久しぶりに星とバイクの話題で賑やかなものとなった。お互い、すっかり
忘れてしまっていたようなエピソードが何人もから綴られ、僕も長文のメールを何度も書いた。
やがて9月が終わり、メールのやりとりもしだいに少なくなりはじめ、秋風と共に、僕も、古い仲間たちも、それぞれの生活に還っていった。
☆ ☆
10月。僕は2カ月ぶりの東京の風のなかにいた。
今回も出張がらみだった。プラネタリウム関係の集まりに参加し、2泊3日の日程が終わって今夜は実家泊まりだった。
ベッドサイドの時計を見た。夜の11時を回っている。
(そろそろ、寝ようか)
読みさしの天文雑誌を閉じ、明かりを消そうと手を伸ばした時。
トタタ・・・。
乾いた音が窓の外で響いた。
一瞬はっ、としたものの、僕はすぐに苦笑した。たぶん、この前と同じバイクだ。近所の誰かがバイクを買い、乗り回しているのに違いない。
あらためて明かりを消そうとした僕は、いぶかしくベッドの上に起き上がった。
バイクの音が増えていた。単気筒だけではない。4気筒の低い音、そして2サイクルエンジンのかん高い音も交じっている。
躊躇した時間は、ほんのわずかだった。一瞬の後、転げ落ちるように僕は階段を駆け降りていた。
玄関の鍵をもどかしい思いで開く。開いた扉の向こう側から、うす青い大気が流れ込む。
「やあ」
ひんやりとした10月の夜風のなかに、いくつものなつかしい顔があった。そして、仲間たちがそれぞの体を預けているどれもが型遅れのバイク。SのCBXのリアシートには、自作の10cmF5反射がくくりつけられている。
バックミラーにかけていたヘルメットを手にとったIが、昔と同じさりげなさで言った。
「奥多摩に行こうよ。今夜は新月だから」
しばらくぼんやりとしていた僕だったが、すぐ我に返ると、ガレージの片隅で埃をかぶっていた250cc4気筒のカバーを取りのけた。
「エンジン、かかるかな」
僕の呟きを聞いてYが言う。
「きっとかかるよ。10年なんて、あっと言う間さ」
ガレージの上に、青くオリオンがのぼっていた。震えるオリオンをバックミラーに映しながら、僕らはふたたび、星空へ向かって走り始める。(おわり)
