●「赤い電車に乗って」その4
積もった雪の青い光も消えて、闇の中を歩いていた健吾さんは、いきなりつまずいて雪の中に倒れてしまいました。
「いてて」
腕をさすりながら起き上がった健吾さんは、足元に固いものを感じて雪を掘り返しました。
レール。
健吾さんをつまずかせたのは、鉄道のレールだったのです。
はっと気づいて腕時計を見た健吾さんは、
「間に合ったあ」
大声でつぶやきました。
腕時計は、四時三十八分を指していました。
踏み切りを渡って小さなホームに上がります。
ホームも雪でまっ白でした。もともと改札口も屋根もない無人駅です。レールでつまずかなければ、雪に埋もれた駅を見つけることなどできなかったことでしょう。
健吾さんは、もう一度、時計を見ました。
あと一分。
そう思った瞬間、全身から力が抜けました。
その場に座りこみながら、健吾さんは気がついたのです。いくら待っても電車が来るはずないということに。鉄道は、もう何年も前に廃線になっているということに。
ホームに座りこんだ健吾さんの体に、吹雪が激しく吹きつけます。疲れきった体が芯まで冷えていくのがわかりました。
座りこんだ健吾さんの体がゆっくりと倒れました。頬に触れる雪の冷たさを感じながら、あと一分、あと一分待てば。
それでも健吾さんは、心のどこかでそう思い続けていたのでした。
雪に埋もれた健吾さんの体を、オレンジ色の光が、さあっと照らし出しました。
ゴトン、ゴトン。プシューッ。
重く懐かしい音が近づいてきて、健吾さんのすぐ横で止まりました。
信じられない思いで、健吾さんは見つめます。
暖かそうな光を窓いっぱいにたたえ、おおぜいの人が乗っている赤い電車。
『谷汲ゆきです。まもなく発車します』
車掌さんの放送に、健吾さんはあわてて起き上がりました。体の雪を払いながら、出入り口のステップを上ります。
ピーッ。車掌さんが笛を鳴らしました。
プシューッ。ドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出します。
「山仕事かい」
声をかけてきた人を振り返った健吾さんは、一瞬、返事ができませんでした。
「作どん・・・」
そう、その人は作どんでした。大きな風呂敷包みを背負い、暖かそうなオーバーを着た・・・。
「岐阜まで買いつけに行ってきたんや。今日はええもんがようけ買えたで」
にこにこ笑うその顔は、まだ二十代の若者でした。
「この雪じゃ、山もたいへんやな」
もう一人、声をかけてきた人を見て、健吾さんはもっと驚きました。
「浜ちゃん」
もう二十年も前に亡くなったはずの、魚屋の浜ちゃんではありませんか。
気を落ち着かせて車内を見回してみると、乗客の半分以上が知り合いでした。そして、誰もが若いころのままなのです。
気さくに声をかけてくる若い知り合いたちに返事をしながら、健吾さんは恥ずかしくてたまりませんでした。みんなが若いころのままなのに、自分だけが八十才近いおじいさんなのです。
みじめな気分で窓の外を見つめた健吾さんは、あれ、と思いました。どこかで見たことのある人が映っていたからです。
すぐに気がつきました。真っ黒な髪をポマードでぴっちり固めて、茶色のハンチング帽を斜めにかぶったその顔。
健吾さんでした。どういうわけだかわかりませんが、みんなと同じように健吾さんも若いころのままの姿で、電車に揺られているのでした。
「健ちゃん。いちばん前」
寄り添ってきた作どんが耳元で囁きました。
運転席のすぐ後ろに立っているその人。長い髪を結い、白いうなじを見せた・・・。
咲ちゃん。
心の中でつぶやきました。
「珍しいね。こんな早い電車で帰ってくるなんて」
作どんに背中を押され、健吾さんは何歩か前に出ました。それにあわせるようにブレーキがかかり、たたらを踏んだ健吾さんは、その人のすぐ後ろでようやく踏みとどまりました。
驚いた顔で振り向くその人。
健吾さんには、電車の音も聞こえなくなり、まわりの人も見えなくなっていました。
「あ、あの」
とまった時間のなかで、健吾さんに言えたのはそれだけでした。
でも、そのとき、その人がもう一言を待っていたような気がしたのは、やはり健吾さんの思いこみにすぎなかったのでしょうか。
『まもなく終点、谷汲です』
車掌さんの声が、健吾さんのそんな思いもかき消して、電車はゆっくりと終着のホームへ滑りこんだのでした。(つづく)
