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2007年03月18日

●随筆「うすあかり礼賛」

 陰影の乏しい時代である。最近、ことさらにそう思う。街を歩けば、どの店もファッショナブルで意匠を凝らしている。テレビを見れば、まだ幼いとも言える娘たちが群れ集って踊り歌い、夜ともなれば、林立するコンビニと街灯が、都会や田舎にかかわらず闇を浸食している。
 何もかも、どこもかしこも明るいのだ。置物と見紛うばあさんが店番をしている商店は絶滅し、七十年代フォークのようなもの悲しい歌は流行らない。日没を迎えるよりも早く道路にも家の窓にも煌々と灯りがともされ、黄昏などという言葉は死語になりつつある。
 ちょっと前まで日本人は、寂とした秋の夕暮れや淡い月あかりを愛でることができる感性を持っていた。季節の移ろいや黄昏の薄闇を、心の襞に映して愉しむことができる能力を持っていたのだ。それは、生物が生存のために有している、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚といった五感から取得した物理情報を統合し、精選し、心というフィルターを通して自然の静謐な意志を汲み取る力だった。
 かつてはすべての日本人が有していたこうした能力を、現代の我々は急速に喪っているように思われる。とにかく便利なモノ、美味しいモノ、小ぎれいなモノ、新しいモノが欲しい、そのためにはお金が第一、自分が幸せになるためには周囲の人も自然も顧慮しない、明るく賑やかでさえあれば毎日が楽しい・・・。
 すべてを商品にしてしまう資本主義社会が行き着いた結果といえばその通りだろう。資源がなく狭い国土に人が満ちあふれているこの国を維持していくためには経済成長こそがすべてに優先される、そのためにはとにかくモノを、情報を売り続けなければならない、購買意欲をかき立てるためには、とにかく明るく賑やかに、毎日をハレの日に仕立てなければ・・・。
 そんな構図が透けて見える現代の日本だが、こうした状況を一語で表した言葉も、かつての日本人は知っていた。その言葉は「餓鬼道」という。もともとは地獄の一形態を表した概念だ。食べても食べても空腹感がなくならない、挙げ句の果てには他人の食い物や、さらには他人の肉体そのものまで飽くなき食欲の対象にしてしまう、これが「餓鬼道」に墜ちた人間の姿である。
 季節のあわいを感じ取り、そのことに愉しみを見いだす能力を喪失し(あるいは喪失させられ)、大手資本がこれでもか、これでもかと投入する商品に飛びつきながら、いくら買い物をしても心が満たされることなく、やがては心そのものさえ喪失して、ただ買い漁り喰い漁るだけの化け物に変化していく・・・。
 資本主義経済がおのずとこうした結末を導くのか、それとも目に見えない仕掛け人がどこかに存在するのかはわからない。それでも、日本人の半数以上が餓鬼に変化してしまったことだけは確かなように思われる。
 抗いがたい力に絶望したくなるが、それでも私は、日本人の心を信じたい。あらゆる事物に宿っている物言わぬ意志を知覚する繊細な力、そうした物言わぬ意志とことさらに諫うことなく、相和し協調してゆくことのできるやさしさ、そうした徳性は、戦後数十年の僅かな期間で完全に喪われるものではないと信じたい。
 こうした日本人の徳性を、偏狭なナショナリズムと混同している(あるいは意図的に結びつけようとする)一部の政治家がいるが、それこそ、もはや完全に日本人の心を喪失してしまった輩なのだろうと思う。
 物言わぬ意志は、草木にも山や川にも動植物にも道具にも、あらゆる存在に宿っている。薄明のあわいのなかで、闇を舞う蛍の光を見つめながら、そうした「いのちの声」を聞き分ける力を養いたい。そうした社会にしていきたいと思う。

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