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2007年01月22日

●峠を越えて

 山に囲まれた旧藤橋村では、昔から峠道を越えて近隣集落との交流が行われてきました。下流の旧揖斐川町までにしても、今でこそ、国道を走って30分ほどですが、昔は、屈曲を繰り返しながら延々と揖斐川の川筋をたどる不便な道でしたし、旧坂内村や旧久瀬村の小津へ行くにしても、徒歩で山道を越えていました。
 揖斐から、現在、揖斐川町藤橋振興事務所のある横山まで車道が開通したのが明治25年です。それまでは揖斐川に沿った山道で、揖斐からの物資運搬は、背中に背負っての徒歩が普通でした。徳山まで車道が開通したのは明治40年でしたが、現在は主要道となっている国道417号線ルートは杉原道と呼ばれ、車道開通までは両岸が断崖絶壁で、とても通れる道ではありませんでした。車道開通後も、杉原道は、落石や増水、転落の危険が多く、岐阜方面から徳山へのもうひとつの主要ルートである馬坂峠越えの道路整備が進められ、雪崩による犠牲者を出しながらも昭和19年に完成、昭和33年には岐阜乗合バスが通うようになり、交通は飛躍的に改善されたのです。

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 坂内方面へは、現在の藤橋村役場付近から、旧坂内村広瀬に至る鉄嶺(くろがね)峠を越えての往来が行われていました。明治27年には、坂内川沿いの車道(現国道303号線)が開通しましたが、鉄嶺峠越えの道の方が距離的に近いために、大正はじめ頃まで利用されました。鉄嶺峠には、お地蔵様が立っており、ほとんど通行する人のいない今でも、ひっそりと峠道の安全を見守っています。
 今では、こうした峠道のほとんどは草に埋もれ、廃道となりつつありますが、旧藤橋村に限らず、山間部の集落はどこも、峠道と尾根道で結ばれ、意外なほど広い範囲での交流が行われてきました。旧徳山村では、信仰や生活様式に越前の影響が色濃く見られるなど、静かな峠道は、文化交流の道でもあったのです。

写真:鉄嶺峠からの景色

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