« ギターが弾きたい宿直の晩 | メイン | 完成に近づいた西美濃天文台 »

2006年10月03日

●小説「ミイラのある地下室」

旧家の当主である友人に案内されて、その家の地下室に降りた私を迎えたものは、先祖代々からの無数のミイラだった。旧家を辞そうとした私を見送る陰惨な憎悪をこめた家政婦の眼差し・・・。

天文にはぜんぜん関係ありませんが、山の中で星を見ていて怖いことはないの? というコメントを受けて、怪奇小説を公開。
真夜中、部屋を暗くしてお読みください。

 彼の家を訪ねたのは、冬を予感させる低く雲の垂れこめた午後だった。
 この街名物の霧は午後になって晴れたものの、気温は相変わらず低い。今年の秋は割合暖かい日が続いていたが、これからはこんな日がしだいに多くなるのだろう。
 雨も降っていないのにじっとりと濡れている石畳の舗道を、私は足早に歩いた。道の両側に並ぶどの家の壁も冷たく濡れそぼち、霧こそ晴れたものの、冷たく湿った空気は、午後になってもこの街をすっぽりと包みこんでいるらしかった。そう思って見れば、もう午後の2時を回っているというのに、街路樹の葉には無数の水滴が付着していて、昨夜来の重たい霧がいまだに乾ききっていないことを示している。
 初めて訪ねた彼の家は、思ったよりずっと簡単に見つかった。この街には戦前からの家が数多く残っているが、この街一番の歴史と由緒を誇る彼の家は、そうした家なみの中でもひときわ古びて大きく、誰でもまず見落とすことはなさそうだった。
 格式を誇るこの家を継ぐ、今やただ一人の有資格者である彼は、そんな家柄など微塵も感じさせないいつもどおりの朗らかさで私を玄関に招き入れた。
「寒かったでしょう。これから春まではこんな日がほとんどになります。この街は雪こそ滅多に降りませんが、とにかくやたらと寒いのです。冬以外は、とても過ごしやすいいい街なんですけどね」
 大理石の暖炉がある天井の高い客間で、私たちはコーヒーを飲んだ。
「僕以外に跡継ぎはいませんから、本当は早く結婚して子供をつくらないといけないんですけどね。でも、今は家を継ぐとかそういう時代じゃないし、ま、折を見てと思ってはいるんですが・・・。ああ、身の回りのことは、通いの家政婦がしてくれます。今は用事があってちょっと出かけていますが、父の代から来てくれているよく気のつく人ですよ。この家のことは僕以上によく知っていますしね」 
 彼が暖炉の火を大きくしてくれたので、家の中は暖かかった。
 会話が途切れると、暖炉の火が爆ぜる音の他は、ことりとも音がしない。すぐ前の通りは車の往来が多いはずなのだが、古い石づくりの家というものは防音に優れているのかもしれなかった。

「それでは、そろそろ見に行きますか」
 2杯目のコーヒーを飲み干した彼が、そう言って立ち上がった。
「地下室にね、あるんですよ。ああ、去年テレビで放映したのをご覧になったのならご存じですね。やっぱり暗くて冷たい場所がいいんだと思いますよ。この街の冬の寒さと湿気が、死体の保存にはちょうどいいらしいですね」
 階段の下にある地下室へのドアの鍵を開けながら彼は説明する。客に商品を見せる古道具屋の若主人といった感じで、特に気負いも感じられない。
「うーん。自分の肉親とはいっても、あんまり代が離れてしまったものは実感がないですし、もちろん、父や母のものもあるんですが、昔からそういうならわしでしたからね。死んだらミイラになって地下室に安置されるというのが、この家ではごく当たり前のことなんですよ。ですから、よく先祖のミイラを見にいらっしゃる方が、すごく貴重なものだとか、珍しい風習だと言われるんですが、どうも実感がなくてね」
 そういうものかもしれないな。私は思った。
 彼の家では、家人が死ぬと、ミイラにして地下室に安置する。古代エジプトやインカ帝国の時代ならともかく、この現代、しかも先進国と言われているこの国でそうした風習が残っていることは学術的にも非常に貴重なことだし、マスコミにもとかくセンセーショナルに取り上げられることが多いのだが、当の本人たちにしてみれば、先祖代々ずっと同じことをしてきたわけだし、ことさらに珍しいことではな
いのかもしれなかった。
「一番古いのは、500年くらい前のものです。あるいは、それより古いものもあるのかも知れませんが、記録が残っていませんし、さすがに解剖して調べるわけにもいきませんしね。もちろん、ときどき解剖させて欲しいという申し出も受けますが、すべて断っています。家人以外の何人たりとも、死者に触れてはならないという家訓があるものですから」
 古く、擦り減った石段を下りながら、彼はそんな説明をした。階段の壁のところどころに穿かれた窪みに電灯が設けられているものの、豆電球よりはまだましといった程度の明るさであり、その光の及ぶ範囲はごく限られた広さでしかない。窪みの部分が真っ黒にすすけていることから考えると、かつては燭台にろうそくを灯して明かりにしていたのだろう。
「暗いですから足元に気をつけて。あんまり明るい光をつけると、ミイラが傷むのです。ですから、テレビの取材は、よほどのことがない限りはお断りすることにしています」

 長い階段を降りきったところは、広い部屋になっていた。やはり明かりの数は少なく、細長い奥行きのある部屋の奥の方は、うすぼんやりとした闇に閉ざされて判然としない。部屋の壁面には、木で作った棚が何段もしつらえてあり、そこに数え切れないほどの人形をした物体が、どれも全身に包帯を巻かれて横たえられていた。
「ミイラです。このあたりのものは、比較的新しいものです。奥へ行けば行くほど、古い先祖のミイラが置いてあります」
 そう言って彼は、階段を降りてすぐの棚に安置されている一体のミイラを指し示した。
「父です。5年前に亡くなりました」
 私は、やや困惑した。普通ならば、型どおりのお悔やみの言葉でも口にすべきなのだろうが、ほとんどの場合、よほどちかしい肉親以外は、死者の姿を目の当たりにすることはない。まして今、目の前に横たわっている彼の父親が亡くなったのは、5年も前のことだ。にもかかわらず、その肉体はこうして厳然としてそこに存在している。しかも、父親の遺体を目の前にしながら、彼は何らの感情も見せることな淡々とそのミイラを指し示す。
「いまのところは、父が最も新しいミイラということになります」
 いまのところは、という部分をやや強調しながら彼は言った。もちろん、彼一流のジョークであり、ふだんならばこちらも気の利いた返事を返すところだ。しかし、こうして暗い地下室でおびただしい死体に囲まれながら(しかもそれが皆、彼の親族であり、なかんずく目の前に横たわっているのは実の父親だ)返事を返すことのできる才覚を、残念ながら私は持ち合わせていなかった。
 さすがに、父親のミイラが安置してある隣の棚が空けてあることについて彼はコメントすることはせず、ゆっくりと部屋の奥へと歩いてゆく。
「なぜ、あなたの家ではミイラを作るのですか」
 聞かずもがなの質問をしてみる。それについては、去年放映したテレビ番組でも解説していたし、(ごく科学的な番組であり、それだからこそ彼も取材をOKしたのだ)さまざまな解説書も出版されていたから今さら尋ねるまでもなかったのだが、この部屋のあまりにも異様な雰囲気と、もともと饒舌とはいえない彼が、いつにも増して寡黙であることによる沈みこむような静寂が、私の舌を勝手に動かしていた。
「そういうしきたりなんですよ。昔は、肉体を残しておけば魂が戻ってくるとか信じられていたそうですが、今では単なる習慣ですね。ただ、古文書を読むと、ところどころに古代エジプト文明とよく似通った記述が見られますから、何らかの関係があったのかもしれません。もちろん、ウチのミイラの方が時代的にはずっと新しいですから、その関連性についてはまだわからないことが多いようです。そのあたりは、考古学者が盛んに研究しているようですが」
 部屋の中の空気は重くよどんでいて、何ともいえない匂いが充満していた。ふだんは締めきった地下室なので黴臭いことは当然だったが、それとは別に、ずっと嗅いでいると、再び地上へはい上がることができない場所へと沈みこんでゆくような湿った匂いが、黴臭さと同じ割合だけ混じっている。
 これが死の匂い、なのだろうな。奇妙に納得したような気持ちで私は思った。
 腐臭ではない。少なくとも、腐敗菌や発酵菌に類するような有機質の匂いではないことは確かだった。というよりも、すべての有機的な存在を地の底深くへと葬り去ってしまうことを意図しているような無機的な匂いだった。地の底深く、この地下室よりもさらにその匂いに満ちている場所では、腐敗菌や発酵菌ですら生きながらえることはできないであろう、そんな永劫の闇を予感させる重く底知れぬ匂い。
 胸が悪くなるようなことはないが、生きてゆくことの根本を侵してゆくようなそんな匂いの中で、私たちは一体ずつミイラを見て歩いた。
 細長い地下室は、奥に行くほど狭くなっていて、灯りも少なくなっていた。部屋の奥へ行くほど古いミイラが置いてあるために、おそらく、わずかな光であってもその保存状態に影響を与えるのだろうと私は思った。
 部屋の奥の方では、ミイラの置き方も違っていた。手前側では、蚕棚に似た木の棚に一体ずつ、きちんと上を向いて寝かせた状態で安置されているのだが、奥の方では、あるものは床にそのまま寝かせてあり、あるものは木の棺に入れて壁に立てかけてあったりした。さらに奇妙なことに、何体かのミイラは、ちょうど床に足を投げ出して座った状態のまま、壁にもたせかけてあった。古いミイラは、比較的新
しいそれに比べるといっそう黴臭く、また埃にまみれており、体を覆う包帯にしてもどす黒く変色していて、その指先や顔の輪郭なども欠損が目立ち、中には腕がすっぽり抜け落ちていたり、落ちた首を金具で補修してあったりするものもあって、永遠の生命を願ってみても、結局は時の流れには決して抗えないものであることを無言のうちに語っているようだった。
「ミイラといっしょに暮らしていて、怖いことはないですか」
 そんな質問をしたのは、つとめて平静を保ってはいるものの、周囲の異様な状況に、やはり私が何らかの恐怖に近いものを感じていたためだろう。
「先祖のミイラですから、怖いことはないですね。それでも、時々おかしなことがあるんですよ」
「おかしなこと・・・。それは、どんなことですか」
 彼の話し方が、それまでとは変わらず淡々としたものだっただけに一層、「おかしなこと」の詳細を、私は尋ねずにはいられなかった。
「動くんですよ」
 そう言って彼は、壁に凭れた姿勢の一体のミイラを指し示した。
「たとえばこのミイラ。今はここに座っていますが、前にはこちらに寝かせてあったんですよ。ある日、気がつくといつのまにか移動していたんですね。ほら、床のここに人型のしみがあるでしょう。これは長い年月の間に、ミイラから染み出したものなんですが、このしみを見ても、随分と長いこと、ミイラがここに寝かせてあったことがわかりますね。それが今はこんなところに・・・」
 彼はそこでいったん言葉を切り、思い出したように話を続けた。
「もっと昔の伝説では、ミイラが家の中を歩いていたという話もあります」
「まさか、そんなこと・・・」
 彼は、私の顔をじっと見つめた。
「嘘だと思いますか。私は、祖父から実際にミイラが動いた話を聞いたことがあるのです。祖父がまだ若い頃のことだと聞きました」
「どんな話なんですか」
「冬の夜、祖父は、たまたま一人きりで本を読んでいたそうです。外は厳しい寒さでしたが、家の中は暖炉の火が暖かく燃えて、そう、ちょうど今日みたいな日だったらしいですね。地下室から妙な音がするのに気がついて、地下室へのドアを開けてみたそうなんです。そうしたら、ミイラが、機械仕掛けの人形のように、ゆっくり、ゆっくりと、地下室からの階段を上ってくるところでした」
「それで?」
「それだけです。ミイラが階段を上りきる前に、祖父はドアを閉めて、鍵をかけました。別に怖いことはなかったそうですが、ミイラは地下室から出ると急速に腐敗しますからね。しばらくしてからドアを開けてみると、ミイラは階段の壁に凭れて座っていたそうです。ミイラが凭れていた壁には、汗のような黒いしみがついていました」
 そう言うと彼は、階段へと私をいざなった。
 石づくりの階段を上り、ドアまであと三段というところで、彼は壁を指さした。
「ここですよ。そう、今あなたが立っているすぐ後ろのその壁です。まだうっすらと、黒いしみが残っていますでしょう。祖父は、そこにうずくまっていたミイラを抱き上げて、さっきの場所へ戻したそうです。座った姿勢のままなのは、完全に硬直してしまっていて、どうしても元のような体を伸ばした姿勢に戻らなかったからだとのことでした」
 さらに彼は、ぶ厚い樫のドアを指さす。
「このドアの傷。誰かが爪で引っ掻いたように見えませんか。同じような傷が、ほら、ここにも、こちらにもあるでしょう。下にあるミイラの中に、どういうわけか、両手の指先の包帯だけが破れているものが何体もあるんです。そんなミイラの爪は、大抵はがれかけています」
 黙りこんだ私に、彼は軽く笑いかけた。
「まあ、昔の話です。僕はそんな経験はありませんし、万が一事実だとしても、別に悪さをするわけではありませんから恐ろしいことは何もありません。さあ、そろそろ部屋に戻りましょうか。ここの寒さは生きているものには毒ですから」


 部屋に戻ると、時代もののシャンデリアのあかりが、ことさらに明るく眩しく感じられた。彼が火を強くしてくれた暖炉の前で、熱いコーヒーをすすっていると、思っていた以上に体が冷えきっていたことにあらためて気づかされた。
「もうこんな時間ですから、どうですか。夕食でも食べていきませんか。もうすぐ家政婦が帰ってきますから」
 彼はそう言ってくれたが、私は帰ることにした。とりたてて急ぐ用事がある訳ではなかったが、夜には雪になりそうだったし、それ以上に、この家全体に漂う何かしら奇妙に沈みこんだ雰囲気が私をことさらに急かしていた。もちろん、地下室に安置されているおびただしい数のミイラを見た印象が、ことさらにこの古い家に陰鬱なかげりを感じさせている要因のひとつであることは確かだったが、ミイラの地下室へ案内される前から、というよりも石づくりのいかめしいこの家の門をくぐった直後から、私はこの家に、どことなく不吉な違和感を感じ続けていたのだった。
 古い家が多いこの街でもひときわ歴史を誇る彼の家は、普通ならば街を代表する建物として、その重ねてきた歳月の分だけ地域にしっとりと馴染んでいるはずなのに、あたかも本来そこにあってはならないもののようにそぐわない印象を与えるのはなぜなのだろう。彼の家だけが、誰も知らない空間から忽然とこの場所に出現した異次元世界の存在であるかのように、私には感じられてならないのだ。
 あるいはそれは、ミイラの地下室にこもっていたあの独特の匂いが、床なり地面なりから少しずつ地上へ滲みだしていて、この家全体を薄く均一に覆っているためなのかもしれなかった。
 底知れない地底からにじみ出てくるような、あの重く黒い匂い。生命あるもののみならず、有機的な存在すべてを否定するようなその匂いに何百年もの間包みこまれ、周囲の街なみとの交わりを遮断され続けてきたからこそ、この家はなにかしら非現実のものであるかのような希薄さと危うさを感じさせるのではあるまいか。
 由緒と家柄を誇る彼の血統がしだいに衰退して、今ではとうとう彼一人になってしまった要因も、あるいはその辺りに求められるような気がして、何とはなしにやりきれない思いのまま、私は彼の家を辞すことにしたのだった。
「ありがとう。珍しいものを見せていただきました」
 玄関から続く廊下の奥に、ふと人の姿を見たような気がしたのは、彼に礼を言い、握手を交わそうとした時だった。
 黒っぽい服を着た・・・中年過ぎの女らしい。
「ああ、家政婦ですね。ちょうど入れかわりに裏口から帰ってきたのでしょう」
 彼も気づいたらしく、廊下の奥をちらりと見てそう言った。
「すみませんね。本来ならば、お見送りに出なくてはいけないんですが・・・。父の代から勤めていまして、悪い女ではないのですが、ちょっと人嫌いの気があるのです。仕事はまじめそのものですし、この家のことは私よりも良く知っています。それにあの年で独り身ですから、ここを出ても行くところがないのです」
 彼はそう言って、心の底から済まなそうな顔をした。
 彼の誠実さは学生時代から良く知っていたし、面識もない家政婦に見送られることを期待していたわけでもなかったから、私は笑って適当な相槌を打ち、いつまでも見送っている彼に何度も手を振りながらその門を出たのだが、本当に名残惜しそうに彼が玄関のドアを閉めるのを見、小雪の舞う夜道を一人きりで歩き始めた途端、何とも言えないうすら寒さを背中に感じるのを抑えることができなかった。
 彼は本当に気づかなかったのだろうか。彼が玄関のドアを閉めるその刹那、彼が背にしている廊下の奥で、初老と言ってもいい家政婦が、まばたきもせず、私をじっと見つめ続けていたことに。
 家政婦の目は、確かに生きた人間の目ではなかった。
 底深いふたつの穴のようなその目。そこに満ちていたのは、あの地下室に充満していたあの匂い、生命あるすべてのものを拒絶し、永遠の暗黒の底へと引きずりこもうとするあの暗さではなかったか。
 ようやく地下鉄の駅にたどり着き、列車の座席に腰をおろすまで、家政婦の視線は、私を追いかけ、まとわりついてきた。その目は、確かに死人の眼窩そのものであるにもかかわらず、ねっとりと粘つくような執拗さで私を睨み据え、地下室のあの匂いを吹きかけ続けてきたのだった。
 地下鉄に揺られ、あの街から遠ざかるにつれて、私は次第に落ち着きを取り戻しながら、どこかで見たことがあるあの目について思いを巡らせていた。
 しばらくはどうしても思い出すことができなかったが、ポイントでも渡ったのだろう、とある駅でガクンと列車が揺れた時、はっとその目を見た場所を鮮明に思い出したのだった。
 ミイラの目だった。彼の家の地下室に安置されていた無数のミイラ。よほど古いそのいくつかは、顔の包帯がなかば解けかけていて、真っ暗な穴そのものの眼窩をあらわに覗かせていた。
 家政婦の目は、そんなミイラの目そのものなのだった。奥深い闇をふたつの眼窩に黒々とたたえた永遠の死者の目。
 私は、空き始めた列車の中で、もう一度身震いをした。
 もちろん、それは私の思い過ごし・・・博物館でもない、ごくふつうの家の地下室に安置されたおびただしい数のミイラを見るという異常な体験がもたらした、子供じみた妄想の産物であるのかもしれないし、事実、そのとおりであったろう。それどころか、長年誠実に働いてきた家政婦を、そんなオカルトじみた妄想の当事者に仕立て上げることこそ、人間として恥ずべきことであるはずだった。
 その晩、私は、いつもよりも強い寝酒を飲んでベッドに入った。それでも、吹きつのる風の音が耳について、かなり長い間、私は寝つくことができなかった。

『旧家の当主、行方不明』
 新聞にそんな見出しを見つけたのは、それから3カ月ほどが過ぎた日曜日の朝のことだった。
 ようやく春めいてきた陽ざしが差しこむ遅い朝食のテーブルに、私は朝刊を大きく広げ、社会面の、さして大きな扱いではないその記事を丹念に読み返した。
 彼についての記事だった。何の連絡もないまま、自らが経営する会社に出社しなくなり、自宅に電話しても誰も電話に出ず、いぶかしく思った社員が家を訪ねてみると門にもドアにも固く鍵が閉ざされており、近所の人や知人に尋ねても一向に要領を得ず、明日から警察が行方不明事件として捜査を始めるとの記事だった。
 会社の社員や近所の人の話では、出社しなくなる前日まで特に変わったようすは見られず、いつもと同じ快活さで仕事をこなしていたという。
 彼の家が先祖代々のミイラを保存していることについては記者も触れていて、行方不明事件としてはいささか不謹慎なミステリー仕立ての記事に仕上げられているのが不快ではあったが、そんなことよりも私の目を引いたのは、記事の最後に付け足しのように書かれていた数行だった。
『なお、先代から勤めているという家政婦の姿も同じころから見えなくなっており、事件についての有力な手がかりを知っているものとみて、警察ではこの家政婦の行方を追っている』
 この最後の数行を読んだとき、私の脳裏には、あの夜の記憶がついさっきのことのように鮮明に蘇っていた。
 暗く湿った空から舞い落ちる古い綿くずのような雪。苔むした門柱。玄関の明かりを背にして名残惜しそうに手を降り続ける彼の姿。そして。
 窓からいっぱいに差しこむ初春の陽ざしを浴びながら私は、背中を伝わる寒さに思わず身震いをしていた。
 彼の背後で、じっと私を見つめていた家政婦のあの目。あれだけ明るい玄関に立っていながら、彼女の目は深い洞窟のように真っ暗で、そこにはたしかに眼球が嵌まっていなかった。ぽっかりと開いた骸骨の眼窩そのものの目は、眼球が存在しないにもかかわらず、確かな意志・・・その落ち窪んだ眼窩の奥底へと見つめるものを引きずりこもうとする陰惨な憎悪をたたえ、私をじっと見つめ続けていたの
だった。
 あの家政婦は、見ず知らずの私に対してなぜ、あれほどの憎悪の念を燃やしていたのだろうか。
 こうして彼が行方不明になった今、決して思い過ごしではなく、たしかに彼女が私をじっと見つめ続けていたことを、それもこの上もなく深い憎悪のこもった眼差しで、私自身ですら覗いたことのない心の最奥部までなめるように覗きこんでいたことを、私は確信していた。
 あの時、彼をどこか食事にでも連れ出していれば、あるいはこのような事件は起こらなかったのかもしれない。
 ただ、もし仮にそうしていたとすれば・・・。
 今頃は、私自身が、この世から姿を消しているのかも知れなかった。
 開いたままの新聞を前に、私はぼんやりと考えている。
 彼は、今もあの家の中にいるのではないだろうか。
 暗く、黴と死の匂いに満ちたあの地下室に安置されている無数のミイラ。そこにもう一体、新しいミイラが増えていたとしても、それに気づく人間は、はたしてどれほどいるものだろうか。
 もちろん、彼の遺体を一体誰がミイラに加工することができたのか、それに答えることは難しい。彼の家に伝わる家訓によれば、血のつながった一族以外の者がミイラ作りに携わることはできないことになっているからだ。
 私は考えるともなく、あの家政婦について思いを巡らせている。
 彼と別れたあの晩も、彼女は、あの地下室で黴と埃にまみれて横たわっていたのではあるまいか。いや、あの晩だけではなく、それ以前からずっと、恐らく何百年もの間、彼女はあの冷たい地下室に横たわったまま、何かを憎悪し続けていたのではあるまいか。
 その底深い憎悪の理由は知る術もない。ただ、あのミイラのある家で綿々と受け継がれてきた彼の一族の血統が、今回の事件によって、古い糸が切れるように完全に途絶えたことだけは確かな事実といえるのだった。

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://at-h.net/~has/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/88

コメント

夜中一人で星を見ていると
怖いです。
野犬にほえられたことがあります
一人のときは音楽を鳴らす人が
いますが、私も同類です。

たいていの場合、観測は一人ですが、いつも無音の状態で見ています。
お化けや幽霊は怖くありませんが、怪しげな人や暴走族などが近くに出没するのは怖いですね。
野犬やその他の野生動物にも何度も出会っていますが、特に怖い思いはしていません。それでも山の中で観測しますので、近くの藪でがさごそ音がすると、わざと大きな音を立てたりして「ここに人間がいるよ」と気づかせることはあります。
藤橋の山奥で観測していると、今の時期は猿の声をよく聞きます。女性の悲鳴か赤ん坊の泣き声のようで、知らない人が聞いたらギョッとすることでしょう。

コメントする

(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)