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2006年07月01日

●藤の吊り橋

揖斐川町役場藤橋振興事務所のすぐ横に、東西横山集落を結ぶ橋がかかっています。
今でこそコンクリートの橋ですが、明治二十五年に木橋に架け替えられるまでは、藤の蔓を編んで作
られた橋がかかっていました。旧藤橋村の村名の起源となった吊橋です。

turihasiezu1.jpg

安部晴明が架橋を指示したとも言われ、正保二年(一六四五)の美濃国絵図にも描かれていることから、近世を通じて架け続けられてきたことは確かなようです。
橋は、山から切り出した白口藤の大蔓を、両岸に植えた大木に結びつけて架けられていました。
それだけの強度と長さを持った材料を調達するだけでも大変でしたし、何の手がかりもない渓谷を挟んで藤蔓を結ぶのも非常に危険な作業でした。
橋の長さは約三十間、幅は四尺、揺れる橋の上から見下ろせば、逆巻く急流に目がくらみそうだったそうです。それでも村人は、重い荷を背負って平気で渡っていたとのことでした。
今、緑の香りに包まれた橋を渡れば、揖斐の川面はあくまで青く、揺れる吊橋を歩いた当時の旅人と心が重なってゆくようです。藤の花が川面を紫に染める初夏が、晴明ゆかりの藤の吊橋跡の白眉です。

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コメント

こんにちは、藤橋城の3階だけ、天文とは
違うものがありますね。確かその階に
この絵がありました。
考えてい見れば藤の橋だから藤橋というわけですね

そうです。藤の吊り橋があったから「藤橋村」だったのですね。
今でも思います。観光用でもいいから、同じ場所に藤の吊り橋を再現してほしいと。
現在の技術ならば、外観はしっかり藤の橋で強度的にも十分なものが架橋できるのではないでしょうか。
旧藤橋村は、いろいろと施設を建設しましたが、ほとんどが歴史や文化とは無関係のものばかりでした。あげくのはてには、住所表記からも「藤橋」の名称を消してしまうなど、まさに無知蒙昧な輩の所業としか思えない合併劇でした。
地名は非常に大切なものです。たとえ100年経っていない新しい村名であっても、由緒ある「藤橋」の名前をいとも簡単に捨て去る見識の低さ・・・。
日本人の文化水準を垣間見た合併のどたばたでした。

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